九谷焼窯元 九谷光仙窯

九谷焼の歴史

寛永五年 (一六二八) 三代前田利常、越中瀬戸の陶工を加賀吸坂に於て製陶させる。古九谷に先行する。一つのルーツといわれる。(吸坂
明暦元年 (一六五五) 大聖寺藩藩主、前田利治、江沼郡山中町九谷に於て発見された陶石により焼物を作ることを後藤才次郎に命じ、古九谷の製陶が始まる。(古九谷
元禄時代 加賀藩、大聖寺藩の財政難、九谷の地が、山奥で運搬に不向きであったなどの理由から窯をとざしてしまう。
文化三年 (一八〇六) 加賀藩、九谷焼再興の為、京都より陶工 青木木米を招き、松田平四郎らを窯元として、金沢の卯辰山にて開窯する。この金沢、春日山窯で作られた製品は、鉢、皿などの日用品が大部分を占めていた。(木米
文化八年 (一八十一) 春日山窯から小松市若杉に移った本多貞吉らが中心となって若杉窯が始まる。隣村にあたる小松市花坂に良質の陶材料があったことから規模の大きなものとなる。
文化十三年 (一八一五) 加賀藩、若杉窯を群奉行配下におき、「若杉陶器所」として保護、助成にあたる。以後、明治始めまで、若杉窯は継続する。
文政六年 (一八二八) 加賀市大聖寺の豊田伝右衛門は、古九谷の他、江沼郡九谷に吉田屋窯を開く、交通の便が悪いため、文政九年、窯を山代に移し、本格的作業が開始された。(吉田屋
天保六年 (一八四〇) 吉田屋窯閉窯後、同家支配人だった宮本屋宇右衛門が再興、絵付に飯田八郎右衛門が主工となり、宮本窯が始まる。(飯田屋
慶応元年 (一八六五) 加賀市山代にて三藤文次郎が中心となり、大聖寺藩援助の元、窯を起こす。京都にいた名工、永楽和全を招き、永楽窯を始める。別名、金欄手と称する。(永楽
宮本窯、小野窯といった所で働いていた九谷庄三(しょうざ)寺井にて「庄三風」と呼ばれる技法を完成する。(庄三